東八拳の歴史

 

東八拳という呼び名は、大正以降に東京でといわれており、藤八拳というのが標準的な呼び名だとされています。まあ、とりあえず、名称にこだわることなく拳の歴史をひもといてみましょう。

虫拳
蛙と蛇となめくじの三すくみによる拳。平安時代の文献に出て来ますから、拳といえるものの一番古いものだと思われます。人差し指が蛇、親指が蛙、小指がなめくじを現します。

数拳
天保年代 (1830〜1844)を全盛期とした数拳は長い間拳の主流で、互いに指を出して、その合計の数を当てるものですが、これも大いに流行し、土俵を設けたり番付も作られています。また文献や浮世絵なども非常に多く残されております。江戸の中期ころまではずっと主流で拳と言えば数拳のことでありました。 家元制度が出来て上手な人が弟子を取り稽古所を設けたりするようになり、拳と言えば必ず負けた方がお酒を飲むという習慣から脱して純粋に勝負を楽しむようになったわけです。土佐の箸拳も指ではなくお箸を指の変わりに使用して両方の箸の合計を当てるものです。
つい最近二人の子供が親指を二本ずつ出して掛け声と共にそのままにしたり一本にしたりして合計を当てる遊びをやっているのを目撃して感動したものでした。

狐拳、庄屋拳、在郷拳、名主拳、藤八拳など多くの名称を持ちますが、いずれも狐と鉄砲(猟師)と庄屋の三すくみの力関係で勝負をしていました。江戸の中期から数拳にかわり狐拳が主流になってきましたが、やはり拳酒といわれる酒席での遊びと、土俵を挟んでの勝負そのものを楽しむのとが、はっきり二分されていたようです。その後の名称は藤八拳と言うのが一般的になり幕末から明治の中頃まで庶民の間で圧倒的な人気をはくし、歌舞伎の演題にまで用いられました。嘉永五年に一勇斎国芳が描いたと「東八拳集」という錦絵は歌舞伎の役者が拳を打っている場面で、市川団十郎、尾上梅幸、沢村宗十郎、市川広五郎のものです。 藤八拳の名称は長崎の薬売り藤八が「藤八・五文・奇妙」という掛け声で売り歩き、そのテンポが妙に拳の掛け声にピッタリだったので藤八拳と言われるようになったというのが定説です。

藤八拳から東八拳になったのは明治後期から大正にかけてというのが有力な説ですが。特筆すべきはお酒の席での座興としての拳も大いに打たれましたが、「拳道」というお酒や遊びと離れたところで武士道精神を盛り込み礼節を重んじるというやり方が、全く別の物のように太平洋戦争のころまで続きました。現在でもおこなわれている東八拳のルーツはどちらかと言うと後者の方で家元制度を持ち、土俵を用いて相撲に準じた独特の儀式もおこなわれ礼節を重んじ勝負そのものを楽しんでいます。

ジャンケンは三すくみの拳の中では一番遅く広まったように思われるのですが、三すくみ拳が大流行した 1840年代の文献に「ジャンケン」という言葉そのものが見られます。編集子は「蛇拳」ではないかと考えますが・・。ただこの拳は大人が宴席で楽しんだというより子供の遊びのようでした。子供が好んだ虫拳が時代と共に変化して、現代では同じ三すくみでも人間の力関係によるものや意味の分かりずらい生き物の力関係よりも、単純で明快な石と紙とはさみというものに移行していったのではないかと思われます。